11月にふさわしい禅語をこつこつ勉強しようかと思いまして。
ちらりんちらちらと(ネットを)見まして、気に入った禅語がこれ。
いろいろな解釈があるようですが、まず、壺中が別天地、悟りの境地の喩えとのこと。
この発想が私(無学なおバカ)には、奇想天外で、「壺の中がねぇ…」と首を傾げてしまいます。
悟りの境地に達すれば、時間に追われる世俗の心は解消され、ゆったりと人生を味わえる…禅語の意味するところは、まあ、理解できます。
しかし、壺の中が悟りの世界とは。
多分、この禅語でイメージされる壺って、深さはあるけど、口が狭くて、中がよく見えない型じゃないかしら?
よく見えないからこそ、中はどうなっているのか想像力が働き、別天地がそこに広がっている、みたいな共通幻想につながったのではないでしょうか?
哲学者の安岡正篤先生は「壺中天あり」⇒「世俗生活の中にある独自の別天地」を持つことを勧めたそうです。
たとえ一日に5分でも、「壺中」に身を置くことで、内面生活の充実を図ることが大切なのだそうです。
このブログを書くことが、「壺中天」につながるとよいのですが。