奥付は「2004年4月10日第1刷発行」。
これまた、新品同様のコンディション。
でも、開くとうっすら読んだ記憶があります。
今日は前半の3章まで読みました。
印象に残ったのはここ。
私は小中学生や大学生を教えていて思うのは、彼らはうまい課題を設定してあげれば、むしろ課題がない時よりも生き生きするということです。ですから、上手な課題を与える、使命感を与えるというのがポイントなのです。
使命感を持ったときに人間はいちばん生き生きしますし、充実感を持ちますから、なんとかできるものなのです。
「自由に考えてごらん」「自由にやってごらん」という授業はよくありますが、自由に考えている時間というのは、私は実は無駄な時間だと思っています。それよりも、「とにかく答えを出せ!」「アイデアを出せ!」という強いミッションを与えるほうが、教わる側も充実する。
それが達成できたときの充実感、あるいは達成しようと努力している最中の充実感を与えることこそが「教える」行為なのです。(23頁)
教える立場の者が、教えられる側に負荷を与えることをためらう風潮がありますが、中途半端な自由を与えても、「無駄」だったり、「充実感の不足」につながるのだったら、「教える」行為が単なる時間の浪費になってしまいます。
設定や選択が難しいのですが、「適切な負荷がかかるもの=ミッション」を与えることが「教える」行為には必要なのですね。
また、ここは以前読んだ時も印象に残ったところ。
教えることを仕事にしている人は、学ぶ側の方が「この人は教える気力に満ちているな」と感じるようでなければいけません。
それには、まず、教える相手、ひとりひとりの目を見ることができなければいけません。やはり目を見たときに相手と気持ちがつながるわけです。気持ちがつながれば、その人はやる気になっていく。
一時間教えたけれど、ひとりの目も見なかったとなれば、教える側がまったく「教える構え」になっていないということになる。相手に意識が向いていない証拠です。
教える立場の人間の顔というのは、まず自分の中の気力を相手に伝えるものでなければいけない。
学ぶ側の気力、活性度、その物事に対する興味や意識を高めるには、教える側がそれらを体現しなければならないのです。学ぶ側は、その習慣を身につけていないのですから、まず教える側が身をもって示して、その構えを相手に移していくわけです。
それには、相手の目を見てきっちり話せること、それが基本です。 (28~29頁)
私は恥ずかしがりやなのか、自分に自信がないのか、1対1なら大丈夫なのですが、20人以上の人間を前にして話すとなると、ひとりひとりの目を見て話せなくなるんですよねえ。
いつも、ってわけではなく、その日のコンディションにもよるのですが。
それで、「目を見なくては」とばかり、いつも考えてしまうのですが、「気力を体現する」と言い換えた方が、自分を納得させられるような気がします。今度、試してみよう…。
でも、この本が書かれた2004年はリモート会議やリモート授業、講義がここまで広がるとは思われていなかったでしょう。
直接、相手の「目」を見られないこともある昨今、教える者はどのような工夫が必要となるのでしょうか?